1. 静岡県静岡市 吉原遊廓の母体となった「二丁町遊廓」

静岡県静岡市 吉原遊廓の母体となった「二丁町遊廓」

静岡県静岡市 吉原遊廓の母体となった「二丁町遊廓」

二丁町遊廓とは、現在の静岡県静岡市葵区駒形通5丁目近辺にかつて存在した遊廓で、その歴史の始まりは天正13年。駿府築城時には、築城のために集められた武士や大工、商人、農民等のほか、彼らを当て込んだ遊女、歌舞伎座等も多く集まってきましたが、

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静岡県静岡市 吉原遊廓の母体となった「二丁町遊廓」

静岡県静岡市 吉原遊廓の母体となった「二丁町遊廓」

二丁町遊廓とは、現在の静岡県静岡市葵区駒形通5丁目近辺にかつて存在した遊廓で、その歴史の始まりは天正13年。
駿府築城時には、築城のために集められた武士や大工、商人、農民等のほか、彼らを当て込んだ遊女、歌舞伎座等も多く集まってきましたが、しかしトラブルが頻繁に起きたため、徳川家康により遊女と女歌舞伎を追放の命が下ったが、徳川家康の鷹匠である伊部勘右衛門の願い出により、幕府公認の遊廓が設置されることとなりました。
その後、吉原に遊廓が作られた際には、駿府の遊廓業者に依頼し、駿府城下にあった7か町の遊廓のうち、5か町分が吉原に移されて、それに伴い大勢の遊女も吉原に移されました。二丁町遊廓が移転して吉原の遊廓の基礎が作られたわけですから、いわば二丁町遊廓は吉原遊廓のもととなった遊廓、と言っても過言ではないのでしょうか。
ちなみに、二丁町遊廓という名は、吉原移転の際に残った2町の遊廓からできた遊廓であるため、二丁町遊廓と命名されたと言われています。
二丁町遊廓はその後、明治時代に入っても営業を続けました。

戦後の二丁町遊廓

二丁町遊廓は、昭和20年6月19日の静岡大空襲により焼失し、戦後になると、進駐軍向けの慰安施設である「富士園」が、二丁町遊廓から2km程東の中田町2丁目に作られたそうです。
慰安施設が廃止された後も、富士園の建物は晁東アパートというアパートとして、昭和55年に取り壊されるまで利用されていました。
その後、駒形5丁目に赤線が形成され、天狗横丁とロマンス街と呼ばれる二つの横丁付近が赤線となっていたようです。バーやスナック、旅館、小料理屋などが立ち並んでいました。
天狗横丁・ロマンス街には、二丁町遊郭が廃止された後、そこで働いていた娼妓や娼婦が流れてきて、売春婦として働いていたようです。
駒形5丁目の赤線は、昭和33年に売春防止法が制定されるまで続いていましたが、制定後もしばらくの間は細々と売春街としての側面は維持され続けていたようです。

現在の二丁町遊郭跡

現在では、二丁町遊廓跡には遊廓の名残を目にすることはできません。
静岡駅北口近くにある清閑町交差点付近にある「しあわせ通り」。この通りを進んでいくと、二丁町遊廓のあった駒形通5丁目にたどり着きますが、現在では静岡県地震防災センターとなっています。
防災センターの横に稲荷神社には「双街の碑」という石碑がありますが、明治時代、当時の静岡県知事により、遊女たちを労うために建立されたそうです。
現在、駒形通5丁目から程近い川辺町には、ヘルス東京という店名のソープランドが営業しています。

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