石川県金沢市 ひがし茶屋街と連れ出しスナック
観光地として有名な石川県金沢。その情緒溢れる風景の中にも、金沢の風俗の歴史が見え隠れしています。
現在、金沢で人気の観光地である「ひがし茶屋街」は、古き良き茶屋街の街並みが残る一帯。この「茶屋街」とは遊廓のことで、ひがし茶屋街は文政年間に加賀藩によって整備された「東の廓」と呼ばれていた遊廓でした。たくさんの芸者や娼妓が働いていた花街で、最古の記録では元和6年の堀川町に遊女の記録があるそうです。
金沢の風俗の歴史~ひがし茶屋街
しかし、加賀藩はその後、何度も出合宿を禁止しようとしますが、出合宿や遊女出合宿を一掃することはなかなか難しかったようです。
しかし元禄3年、武士4人が町人たちと共に19人の遊女を働かせて禁止されていた出合宿を経営していたことが発覚し、武士、町人、遊女ともに、事件に関わった人々が刑罰を受けることに。
武士は流刑に、町人は打首、耳や鼻を削がれる刑に処され、遊女たちは禁牢後に流刑となりました。
宝暦9年には、金沢城下に大火が起こり、約1万戸の家屋が焼失してしまいます。その後、金沢城下に点在していた茶屋を東と西にまとめて茶屋街を作り、開業許可を出したそうです。
天保2年には、風紀の乱れ等を理由に茶屋は廃止となりますが、その後弘化3年には、ひがし茶屋街は愛宕と改名され、加賀藩は出合宿特有の建物の造りを改めさせようとします。
しかし、あまりその改築は進まなかったようで、結局その20年後の慶應年には、茶屋街は再度加賀藩公認のものとなりました。
以降、ひがし茶屋街は「東新地」「ひがし」という名称で呼ばれるようになりました。
東新地には、慶応3年には茶屋数が122件、芸妓が119名、遠所芸妓が45名、娼婦が164名も働いていたようです。
明治の時代になると、明治5年の芸娼妓解放令、明治12年の貸座敷規則を経て、明治34年には貸座敷引手茶屋娼妓取締規則俗解が発布され、ひがし茶屋街の遊廓はその規則にしたがって昭和の初めまで営業を続けました。
現在の金沢の風俗…連れ出しスナック
現在の金沢では、裏風俗を楽しむことができます。
金沢の代表的な裏風俗が「連れ出しスナック」「本番スナック」と呼ばれるもので、形式としてはちょんの間に近い裏風俗です。
1階がスナックで、そこで女の子を選んで2階で遊ぶという場合と、女の子を選んだら付近のラブホテルまで行って遊ぶ、という2パターンのお店があるようです。
金沢で裏風俗が楽しめる場所は「新天地」と「石坂」。新天地は片町という数多くのレストランや飲み屋、バー、キャバクラにセクキャバ、風俗…と、様々な業種の飲食業が集まった、北陸随一の繁華街と言われている街の一画にある年季の入った飲食店街です。
新天地に行くと、客引きの老人たちが待ち構えています。新天地の連れ出しスナックは、スナックの二階で遊ぶタイプだそうです。
もう一つ「石坂」の連れ出しスナック街は、西茶屋街の近くにあります。用水路サイドにスナックが立ち並んでおり、こちらはラブホテルに女の子を連れ出して遊ぶ形式の連れ出しスナックです。
新天地の風俗嬢は40代~50代の嬢が多く、石坂の連れ出しスナックは若めの女性が多いようです。
金沢に観光に行った際には、ぜひ金沢の裏風俗である「連れ出しスナック」を楽しんでみてはいかがでしょうか。