1. 埼玉県のソープ街 大宮北銀座・キタギン

埼玉県のソープ街 大宮北銀座・キタギン

埼玉県のソープ街 大宮北銀座・キタギン

東京からも程近い埼玉県大宮市には特殊浴場エリアがあり、多数のソープランドが営業しています。 大宮市には「大宮南銀座(通称ナンギン)」という歓楽街があり、高度成長期あたりには非常に有名な歓楽街でした。

風俗太郎
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埼玉県のソープ街 大宮北銀座・キタギン

埼玉県のソープ街 大宮北銀座・キタギン

東京からも程近いに埼玉県大宮市特殊浴場エリアがあり、多数のソープランドが営業しています。
大宮市には「大宮南銀座(通称ナンギン)」という歓楽街があり、高度成長期あたりには非常に有名な歓楽街でした。
そのナンギンと対を成すように「北銀座(通称キタギン)」と呼ばれるようになったのが、大宮駅の北側にある「大宮銀座通り」と、更にその奥の平和通りに存在する特殊浴場エリア「北新地」でした。

キタギンの始まりは赤線

かつて、武蔵国一宮と呼ばれていた大宮は、氷川神社の門前町として栄えていましたが、寛永年間に入ると新しい街が形成されて、旧中山道の宿場町となりました。最盛期には本陣が1軒、脇本陣が9軒あり、賑わいを見せていたそうです。
『よるの女性街・全国案内版』によると、氷川神社のある大宮公園、東山に、置屋・料理屋・旅館等が約65軒、芸者は200名ほどが働いていたそうです。そして、赤線は駅から約10分の場所にある新地に「達磨屋」と呼ばれる酌婦を置く料理屋が50軒、娼妓が180名ほど働いていたようです。埼玉県は1928年に廃娼県となった県であったため、政府公認の遊郭は存在していませんでした。しかし、その代わりに、この「達磨屋」という料理屋にて、遊郭と同じようなサービスを受けられることができたとか。
ちなみに、この達磨屋の「達磨」とは、「女がだるまのように転ぶ」という点から名づけられたんだとか。恐らく酌婦が男性客に体を鬻ぐときに床に寝転がるためそのように言ったのではないでしょうか。
戦後、花街赤線へとなり、北銀座一体はカフェー街となり、1958年の売春防止法施工後には特殊浴場エリアへとなりました。北銀座には、ソープランドの合間に戦後のカフェー建築が今でもちらほらと見られる一帯です。

お女郎地蔵と火の玉不動の伝説

その昔宿場町大宮宿だった大宮には、こんな史跡も残されています。
「お女郎地蔵」と「火の玉不動」という二つの地蔵が並んで経っている祠がありますが、これにはこんな言い伝えがあります。
その昔大宮宿の柳屋という旅籠に、千鳥と都鳥という二人の美人姉妹が遊女として客の相手をしていましたが、千鳥が材木屋の若旦那と恋に落ちて夫婦の約束をしました。しかし、神道徳次郎という大盗賊も千鳥に惚れ込んでおり、自分が絶対に千鳥を身請けする、宿に火を付けてやると脅したため、思い悩んだ千鳥は、高台橋から身投げして死んでしまいました。それを哀れんだ近所の人々が、女郎地蔵を建立したとのことです。
なお、大盗賊の神道徳次郎は寛政元年に高台橋の横にある刑場で処刑されたと言われています。
更に、その後高台橋の辺りでは火の玉が飛び交うのが見られるようになり、千鳥の霊魂なのか、はたまたお女郎地蔵横の不動明王の悪戯か、とうわさになりましたが、ある日一人の男が現れた火の玉に切りつけると、大きな悲鳴が響き渡り、憤怒の形相の男が立っていました。その男は自分は不動明王であり、男に剣を切り落とされた、と言って消えてしまいます。翌日、近所の人が不動明王を見に行くと、不動明王の石像は剣を持っていなかったとのことです。
遊女の悲しい伝説が残る大宮には、売春文化が今も形を変えて引き継がれています。

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